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32.空色の歌を描いた日

過ごした時間は、ほんの一瞬。
それでも、僕の中に強く生き続けている女の子がいる。
スケッチブックに刻まれた横顔は、大人になった今でも、僕の特別な一枚。




あの日僕らは病室を抜け出して、屋上へと続く階段をのぼった。
青空が高くどこまでも澄み切っていて、少し冷たくなった風が頬を撫でる。
干された洗濯物がひらひらと踊り、
薬のにおいが染み付いた下の階とはまるで別世界のようだった。

どこか遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。
「すごいね。姿が見えなくてもこんなに声が響くんだ」
と、柔らかい表情で呟いた彼女は
しばらくの間目を閉じて、その声に耳を澄ましていたが
ふっと顔を上げ、そよぐ風にのせるように口ずさんだのは、とある旋律。

どうしてあの時、あんなにも惹き込まれたのか。
今だって僕の薄っぺらい言葉なんかじゃとても説明できそうにない。
ただ、彼女が歌っている間中僕は、その横顔から目が離せなかった。
この時初めて、歌がこんなにも心を打つものだと僕は知ったのだ。

その後聞いた。彼女の病気のこと。
治すには複雑な手術が必要で、ここより大きな病院に明日移るという事…。


僕は病室に戻ると思い立ったかのように
いつも傍らに置いていたスケッチブックを開いた。
そして今さっき目に焼き付けた、彼女の横顔を夢中で描きはじめた。
表情、瞳、風にゆれる長い髪…納得がいくまで消しては描いてを繰り返して。
線を描き終えると、今度は水彩色鉛筆を取り出して丁寧に色をのせた。
雪のような肌に薄桃色の頬…。髪に黒をのせかけて…青色に変えた。
歌と、空と、彼女自身が綺麗に溶け合って見えたから。
きっと彼女は、想いを歌に込めたんだと思う。言葉じゃ表現しきれない、色々な想いを…

次の朝彼女の病室を訪ねると、ベットはもう空っぽだった。
その二日後に僕は普通に退院して、いままでどおりの日常に戻った。



今でも彼女のページを開くと、
あの日の透明な歌声が聞こえてきそうな気がする。
…彼女は、覚えているのだろうか?僕と過ごしたほんのわずかな時間を。
覚えてなくてもいい。どこかで元気に過ごしているのならそれでいい。

ふと、あの歌を口ずさむ事がある。
いつだって僕の声も空に溶けて、どこかにいる君まで届くような気がした。

32.歌

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